私が子供のころに、友達との間で「今から天国の話をしてもいい?」、「いい
よ」、「あのよー・・・」というギャグがはやりましたが、今回は「あの世」
の話をさせていただきます。
「この世」で死ぬと「あの世」に行くそうですが、あの世には「地獄」と「極
楽(天国)」があるといわれています。みなさんは地獄や極楽はどんなところ
かと聞かれたら何て答えますか。地獄といって想像するのは、血の池、針の山、
かまど・・・極楽といわれると観音様、花畑、三途の川でしょうか。また、良い行いをする人は極楽へ行き、悪い行いをした人は地獄へ行くなどといわれ、あの世で地獄か極楽かどちらに行くかは閻魔大王(閻魔さま)が決めるのだと
いうようなことも聞いたことがあると思います。そして、地獄は地中の奥深くにあり、天国は空の遥かかなた上にあるイメージではないでしょうか。ところが、私の聞いた話はちょっと違うようです。なんと、地獄には血の池や針の山はなく、極楽には花畑などないというのです。また、地獄と極楽は入口が違うだけで、隣合わせにあるというのです。ここで、私が以前に聞いた「三尺三寸箸」という法話を紹介します。
昔、ある村に住んでいた百姓が地獄の見学に出かけました。地獄の玄関には閻魔大王が怖い顔をして座っていました。そして、死者が行列をつくって閻魔大王の審判をうけるために並んでいます。百姓が閻魔大王に「地獄を見学させてください」というと、「お前のような人間が来るところではない」と断られま
した。そこで、地獄の玄関の窓からちょっとだけ中をのぞいてみました。百姓は血の池、針の山、かまどで人々が苦しんでいる光景をと想像していたら、なんとテーブルにご馳走が並んでいるではありませんか。鯛のお刺身やしゃぶしゃぶ、おいしそうなお寿司などが並んでいます。でも、よく見ると地獄の人々はそのご馳走を前にして、みんなガリガリに痩せています。それもそのはずです。片方の手は椅子に縛られていて、もう片方の手に三尺三寸(約1メートル)もある長い箸がひもで結びつけられているのです。
地獄の人々は、ご馳走を食べようと必死に箸をつかいますが、箸が長すぎてご馳走を口に運ぶことができず、食べられません。また、他人に取られまいと必死にご馳走に長い箸を差し込んでいます。さらに、前にいる人が食べ物をとろうとするので、箸の先にある食べ物を放り投げたり、その箸で相手を攻撃しています。相手も必死で応戦してきます。テーブルの周りには食べ物が散乱し、人々の怒号が飛び交う・・・まさに「地獄絵」の状態です。
次に、百姓は隣にある極楽も玄関からのぞいてみました。百姓はきれいな風景で後光のさした観音様がいる花畑を想像していましたが、なんと極楽は地獄と全く同じで、テーブルには食べきれないご馳走が盛られていました。また、よく見てみると極楽の人々も左手を椅子に縛り付けられています。そして、「右手は?」と見ると、地獄で見たのと同じ三尺三寸の長い箸をもっています。そこで、極楽の人もおなかをすかせて悲鳴をあげているかと思いきや、地獄と違うのは食卓に座っている人たちがみんなニコニコと微笑んで、とても楽しそうでおいしそうにテーブルのご馳走を食べているのです。それは、極楽ではどの人もご馳走を箸ではさんで自分で食べるのではなく、自分の周りにいる人たちの口に入れているのです。それで、極楽の人々はおいしいご馳走を満足するまで食べられるのです。
この話は「あの世」だけでなく、「この世」でも一緒です。私たちが自分の生
活を地獄と感じるか、極楽と感じるかは「助け合い」や「思いやり」の心があ
るかないかで決まります。自分のことばかり考えていると生活は地獄です。思
いやりの心を持って、お互いに助け合えばどんな苦しい生活でも極楽になります。
地獄と極楽には、いわゆる「天と地」ほどの大きな違いはなく、紙一重です。
人生や生活を地獄にするか、極楽にするかは、与えられた箸をどう使うかで決まるのです。それを決めるのは、神様でも仏様でも閻魔さまでもありません。
自分なのです(終)。
|