先日、森田ゆり氏の著書「ダイバーシティ・トレーニング・ブック」(解放出
版社)を読んで、「サラダ・ボウル社会」という言葉を見つけたので紹介した
いと思います。
森田氏は、過去に米国と日本で子どもや女性への暴力防止に関わる専門職養成に携わっていました。米国では、カリフォルニア大学主任アナリストとして、ダイバーシティ、セクシュアル・ハラスメントなど人権問題の研修を開発し、日本では1997年にエンパワメント・センターを設立して、現在はダイバーシティ・トレーナーとしてダイバーシティ研修をはじめ、人権、アサーティブ研修、ファシリテーター養成講座、コーチングのスキル虐待、DVなどのテーマで専門職養成の参加型研修を全国で行っています。
ダイバーシティとは一言でいえば「多様性」となりますが、「多様な人々が互
いの違いを尊重し共に生きる社会」という理念を表す言葉です。アメリカでは1990年代に大きく花開いた概念で、人権理解のためだけではなく、人材開発やマネージメント・トレーニングにおいて最も注目された概念の一つです。企業の経営方針に多様性がうたわれていたりすることが、珍しいことではなくなったのも90年代でした。森田氏はちょうどこのころに、カリフォルニア大学の主任アナリストとして大学内の多様性を推進するための研修を行い、そのための教材開発をする仕事を任せられていました。民族的、文化的背景を異にする人々が、一つの国の中でいかに共存していくかは多民族国家であるアメリカの歴史を通しての大きな課題でした。以下に、森田氏が著書の中で「メルティング・ポットからサラダ・ボウルへ」というテーマでアメリカ社会の変化について述べているのでご紹介します。
『長い間、アメリカ社会は「メルティング・ポット」だと言われてきました。
メルティング・ポット社会では、人々はそれぞれの独自の文化や言語を尊重し維持するよりは、むしろ独自性を捨てて、多数派に溶け混じることが求められました。多数派、すなわちアングロサクソン、男性、健常者、ヘテロセクシュアル(異性愛)の価値観に同化することが求められたのです。ポットの中にスープがある。この中にはたくさんのポテト、少しの牛肉、一本のニンジン、一個のトマトが入っているとしましょう。ぐつぐつと煮込まれ、それぞれの食材は溶けあっている。ニンジンやトマトはもう元の原型をとどめていない。味もニンジンやトマトの味はよくわからない。なんといっても一番量の多いポテトの味が支配的。このように、メルティング・ポット社会では、人種的少数派は多数派に同化することで初めてアメリカ人として認識してもらえたわけです。
ところが、公民権運動に代表されるアメリカの社会変革の大きな運動は、60年代から70年代かけて、メルティング・ポット社会が「白人社会への同化」を要求してきたことを指摘し、新しい価値観を反映した社会の理念を追求していきました。そこでは一つの文化と他の文化が優劣で比較されたり、支配従属関係を持つことはなく、それぞれの文化や伝統や価値観や言語、さらには一人ひとりの個性の違いが、可能な限り尊重される社会をさしている。このような社会のことを「サラダ・ボウル社会」といいます。サラダの器(ボウル)の中には、レタスあり、キュウリあり、トマト、ニンジン、アボカド等々が、溶けることなく混在している。その一つ一つにそれぞれの色があり味わいがある。メルティング・ポットの中のスープのように、ニンジンもトマトもポテトもいっしょくたに煮込まれて溶けて一つの味を作り出すのではない。メルティング・ポッ
トからサラダ・ボウルへ。それがアメリカにおける多様性社会へ向かう努力の軌跡だということができます。』
日本の企業においても、市場のグローバル化が進む中で、偏見や差別などの問題というより、組織の生産性向上や優れた人材の確保という観点からダイバーシティが注目されています。これからの企業では、地位や学歴や経験が「自分より劣っている」と思える人に対して優越感を持つことでしか自分の存在価値を自覚できない人や「自分は組織の中の多数派だ」という安心感から少数派の人に偏見を持ったり差別をしたりする人は生き残っていけません。一人ひとりの違いを尊重しながら仕事の効率性と生産性を高めていける人材を企業は求めていて、そのような人材をいかに育てていくかが企業における今後の重要な課題であると私は思います(終)。
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