吉田兼好(兼好法師)によって書かれたとされる「つれづれなるままに〜」
の冒頭で知られる随筆「徒然草」には、現代人の心にも響く多くの教えがあ
ります。今回は、徒然草から第四十五段のお話をご紹介します。現代語に訳すと、こんなお話です。
「むかし、良覚僧正(りょうがくそうじょう)という坊さんがいた。頭が良く位は高いが、きわめて怒りっぽい人だった。そのような人を本名で呼びたくないのか、世間の人々はもっぱら、『榎木(えのき)の僧正』というアダ名で呼んでいた。その寺に一本の大きな榎の木があったからである。こう呼ばれることが、この僧正にはシャクにさわった。そこで、この榎の木さえなければアダ名も無くなると考えて、これを切らせてしまった。しかし、幹はなくなっても根と株は残っていたので、人々は『切株(きりかぶ)の僧正』という新しいアダ名をつけた。すると僧正はますます逆上して、その切株を掘りおこしてしまった。すると、大木であったため、その跡に大きな穴ができ、これに雨水がたまって池ができた。人々は『堀池(ほりいけ)の僧正』というアダ名をまたつけて、これをもって呼んだということだ。」
良覚僧正が本名で呼ばれたいと思うなら、まずは自分の心を改めて、人に親しまれる人柄になり変わることが必要です。この僧正はそこに気がつかないで、アダ名の材料である榎や切株にその原因を求めています。
アダ名の材料であるものをいくら取り除いてみたとて、永久にラチがあかないでしょう。
もしも、次にその池を埋めたりすれば、今度は「埋立(うめたて)の僧正」と呼ばれるに違いないのです。
「徒然草」に登場するこの話は「人に好かれないことは不幸ですが、その原
因は自分の行動にあるのだから、好かれたいなら自分の行動を改めなさい」
という教えです。また逆に、「原因を自分の行動に求めることのできない人は幸せになることができない」という教えです。「私は不幸だ」、「自分は
運がない」と言っている人を時々見かけますが、そういう人に限って、その
原因を自分以外の何かに求めている場合が多いのではないでしょうか。この僧正も「自分は頭も良く、才能もあるのに何で人に好かれないのだろう」と
考えるばかりで、肝心の「自分の行動はどこがいけないのか」という原因に
気づかなかったのでしょう。これでは幸せにはなれません。
現代の日本でも、頭が良くて企業の管理職や組織のリーダーなど、ある程度の社会的地位を持っている人は多いでしょう。でも、その中には良覚僧正のように自分が好かれないことを周りの人のせいにして、イライラしたり、そ
の不満や怒りを周りの人にぶつけている人もいると思います。自分が好かれないこと、満足できないことの原因を周りの人や起こった出来事のせいにするのであれば、これ以上に自分の社会的地位を上げることはできないでしょう。「人に好かれない自分を変えるためには自分の行動をどのように変えればいいか」をまずは考え、人に好かれる振る舞いや具体的行動を実行していくことが、これから自分の地位を上げたり、成功していく条件なのです。歴史に名を残している人たちは、どこかで自分を変えるターニングポイントをつかんで、自分の行動を変えることで成功しているのだと思います。
世の中で成功して、歴史に名を残している人は才能において第一級であったことはいうまでもないし、その才能を出しきることのできた人たちであった
ことも間違いないでしょう。しかし、彼らが才能だけで成功したのだと考え
るなら、それは大きな間違いでしょう。その才能の基盤には、きっと「人徳」
という根があります。この根の張り方の深さにおいて、彼らは特別なものを
持っていて、その根があったからこそ才能の花も咲いたのだと思います。逆
に言えば、人徳のない人はいかなる大才の持ち主であろうと、これが大きく
開花することはないということです。
才能の秀でた人を「できる人」、人徳の備わった人を「できた人」といいます。「あの人はできる人だ」とほめられることは結構なことですが、「あの人はよくできた人だ」といわれるのは、それ以上に価値があることです。みなさんも幸福をつかもうと思ったら「できる人」より「できた人」になるように努力しましょう(終)。
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