毎年12月の20日すぎになると、嫁と一緒に必ず行く場所があります。東京都新宿区西早稲田にある穴八幡宮です。穴八幡宮で毎年冬至から節分の間だけいただくことができる「一陽来復(いちようらいふく)」という御守りを授かって、嫁の経営しているお店や自宅に貼る他、家族全員の財布に入れて、
商売繁盛や金運上昇を願います。
「一陽来復」について調べてみました。三省堂国語辞典第七版によると、「@春がくること。新年になること。〔多く手紙で時候のあいさつに使う〕
A陰(イン)がきわまって、陽がかえってくる(こと/時節)。〔冬至(トウジ)の日をさす〕 Bしばらく不運が続いたあとで、いい運が向いてくること。」となっています。一年で一番昼間の時間が短い冬至を境に日が一日一日と長くなっていくことを、中国の易の言葉で「一陽来復」といい、「良くない事(陰)の続いた後に、良い事(陽)がめぐって来る」という意
味の言葉のようです。一陽来復の御守りをその年の定められた恵方に向けて、
冬至か大晦日か節分のいずれかの深夜0時におまつりするとお金繰りが良く
なるといわれていて、商売繁盛や金運上昇の御守りとして大変人気があるそ
うです。
もう少し「一陽来復」について調べていくと、日本人を教祖にもつ最も古い宗教「黒住教」の教祖である黒住宗忠という人の逸話が出てきます。黒住教のHPによると、「教祖神・黒住宗忠は、安永9年(1780年)11月26日の冬至の日の朝、代々今村宮(岡山市北区今)の神職をつとめる家に生まれ
ました。・・・(中略)・・・数えて33歳の時、かけがえのない両親が流
行病によりわずか1週間の内に相次いで亡くなりました。その悲しみがもと
で宗忠自身も不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れ
ない状態に陥りました。死を覚悟した宗忠は、文化11年(1814年)1月の厳寒の朝、幼いころから両親とともに毎朝手を合わせてきた日の出を拝みました。この“最期の日拝”の祈りの最中に、宗忠は知らず知らずのうちに大変な親不孝をしていたことに気づき、せめて心だけでも両親が安心する人間に立ち戻らねばならないと大きく心を入れかえました。この世との別れの日拝だったものが、新たな“生”への祈りに転回しました。この心の大転換により、
宗忠の暗く閉ざされた心のなかに陽気な感謝の気持ちがよみがえり、その
結果わずか2カ月で不治の病を完全に克服しました。その年の11月11日。
この日は昔から『一陽来復』と称され、物事が新たに始まる時とされてきた冬至の日でした。安永9年(1780年)の冬至の朝に誕生した宗忠が、死の淵を乗り越えて34回目の誕生日をこの日迎えたのです。・・・(中略)・・・
以来、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために昼夜を問わず祈り、
教え導き、多くの人々から生き神と称えられ、すでに神仕えの身であったこ
ともあって自然な姿で教祖神と仰がれました。・・・」とあります。
黒住宗忠が助けを求める人の相談を受けたときの対応が「生きるヒント『一
日一話』」(櫻木健古著、三笠書房)」に書かれています。「ある信者が持病の頭痛について訴え、その療法について教えを求めたことがあった。すると宗忠はこともなげに、『ナニ、そんな頭痛はなんでもない。それよりも、いま、いちばん心配なのは、あなたの右足の裏に出かかっている腫れものの
ことじゃ。ヘタをすると大変なことになりますゾ』、『(信者:)そんなものが・・・?』、『ああ、出かかっておる。私には見えるのじゃ。よくよく
気をつけておられよ』。気味わるくなって、毎日そこに気をとられていたが、
一週間たっても自覚できる異常はない。そこで、また宗忠を訪ねてそのこと
を話すと、『それはけっこう。きょうまで出てこないなら、腫れもののほう
はもう心配ない。ところで、頭痛のほうはどうかね?』、『(信者:)エ?
頭痛?・・・いや、すっかり忘れておりました。』。この人の頭痛という持
病は、いまでいう心因性、神経性のものであったわけである。『気を病む』
ことによって、ありもしない病気をつくりだしていたのだ。宗忠はそこを見
抜いたのだが、そのような病気に療法などあろうはずがない。そこで、頭と
反対の位置のところに、ありもしない腫れものがあるとおどして、注意をそ
のほうへそらさせようとしたのだ。これが見事に成功したわけであった。」
・・・。この話は今から200年以上前の話ですが、世の中の精神科医や私
のようなカウンセラーにも参考になる話だと思いました。
私は今年も12月に穴八幡宮に行く予定ですが、今回「一陽来復」について
勉強したことで、あらためて神社にお参りすることの意義と毎日「昼間」を作ってくれる太陽への感謝の大切さを再認識することができました(終)。
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