今回は、欧米人から見た日本人や日本の文化について研究した「日本人論」の
中で、アメリカの女性人類学者ルース・ベネディクト氏が書いた著書「菊と刀日本文化の型」をご紹介します。
ベネディクト氏は第二次世界大戦中に米国戦時情報局から日本研究の仕事を委嘱され、来日してからこの本を刊行しました。彼女はこの本の中で、日本人の文化は「恥を基調とする文化」、つまり「恥の文化」であり、欧米人の文化である「罪を基調とする文化」、つまり「罪の文化」とは違っていると紹介しています。ある1人の欧米人が日本で山登りをしたとき、ところどころにゴミや空き缶が捨てられていることがとても気になり、その原因を調べたところ、日本人の心無い登山者が捨てていくことがわかりました。さらに観察してみると、彼らは周りに人がいると絶対にゴミを捨てないのですが、誰もいなくなったことを確かめると、平気でゴミを捨てていくのです。
これは「人が見ているからやらない」、「人が見ていないなら構わない」とい
うように、「他人の目」が行動を決定する規準となっていることをあらわして
います。すなわち、これがベネディクトのいう「恥ずかしいか、恥ずかしくな
いか」という基準で行動を決定する「恥の文化」ということなのです。これに
対し、欧米ではゴミを捨てる人が少ないといいます。欧米人は「他人の目」ではなく「神様がいつも私を見ておられる」というのです。彼らは神様との対話の中で行動を決定しているのです。これが「罪の文化」です。つまり、日本の「恥の文化」は「他人の目」という相対的な基準であり、欧米では「罪」とい
う絶対的な基準が人間の行動を決定しているのです。
日本人は恥をかくことを嫌います。人前で恥をかきたくないため、昔から控えめが「美」とされ、外国人に比べて引っ込み思案で自己表現が苦手でした。また、これに「正義より名誉を重んじる」という武士道の教えも加わって、歴史的に「恥の文化」が形成されてきたのでしょう。ただ、最近では日本もコンプライアンス(法令順守)などの考え方が定着しつつあり、「正しいか、正しくないか」という基準である「罪の文化」が徐々に取り入れられ、それにより少しずつ「恥ずかしいか、恥ずかしくないか」という基準である「恥の文化」も薄れつつあります。しかし、日本の伝統である「恥の文化」がこのままなくなってしまうことにより、日本がおかしな方向へ行ってしまうのではないかという危険も心配されています。
「恥の文化」が存在している限り、人目を気にするだけ秩序は保たれることになります。しかし、日本人が「恥」をなくし、「恥」を感じなくなれば、秩序
のない時代に突入することが考えられます。つまり、「恥ずかしいか、恥ずか
しくないか」から「正しいか、正しくないか」に移行すればいいのですが、
「自分の欲求を満たすか満たさないか」という自分の欲求を基準に行動を決定
するような「欲の文化」に移行する危険があるのです。携帯用カメラが普及し、いつでも誰でも写真や動画が撮れるようになり、あっという間にSNSで他人に情報提供ができる便利な時代に入った一方、それらの行動が個人の責任に任されることになり、個人の道徳観や倫理観がよりいっそう重視されることになります。コンビニで商品にいたずらをしたり、注意されているのに何度もドローンを飛ばして、それらの画像を投稿している少年たちの行為は「罪」の意識も「恥」の意識もなく、「私は有名になりたい」という自分の欲を基準に行われているようで、日本がこのような「欲の文化」に移行していくのではないか、と私は危惧しているのです。
最後になりますが、ベネディクト氏の「菊と刀 日本文化の型」には日本古来
の階層社会が創り出した道徳観が「恩」と「義理」であるということも書いて
あります。日本では、これらの意識も最近では少しずつ薄れつつありますが、
日本のよき伝統として、「恥の文化」とともに守っていかなければならないと
私は思います(終)。
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